日本経済新聞の昨日の記事から・・・
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老舗の研究・小賀坂スキー製作所 買う人の立場で考える
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFB07H4Y_Y7A600C1L31000/
「常に買う人の立場にたって考えよ」。小賀坂スキー製作所(長野市)の営業方針の第一項目にこそ、日本初のスキー板メーカーとして百年を過ぎた今も歴史を刻む理由がある。
同社の創業は1912年(明治45年)。前年にオーストリアのレルヒ少佐が、新潟県高田の陸軍第13師団に初めてスキーを指導し、同地で細々とスキーの生産が始まっていた。
12年に同師団が主催するスキー研修会に飯山中学(現・飯山北高)が参加した縁で、同校の校長からスキー40台の製作を命じられたのが、家具職人の小賀坂濱太郎だった。
最初はマツ材を削って熱や蒸気でたわめて単板の製品を作ったが耐久性がなく、ケヤキやブナなど様々な材料を試した。19年には皇室に極上品を献上するまでに技術を高め、34年には国内でいち早く合板のスキー生産を本格化した。
後に2代目社長となる次男の廣治はクロスカントリーの選手として鳴らし、自ら作った製品を自分でテストして改良した。戦時中は機械の供出を命じられ、同社がスキー専業として復活したのは50年。戦後すぐにスキー生産に着手した他社が販売ルートを押さえており、作っても売るところがなかった。
以前の顧客からの注文でしのぐうちに、製品の良さを伝え聞いた小売店が買いに訪れ、卸も来た。通常とは逆のルートで販路が広がった。スキーブームの到来を背景に58年に株式会社化し、翌年に飯山から長野市に本社工場を移す。
廣治は技術開発に熱心だった。ピアノ線を組み込んだスチールファイバースキーなど絶えず素材を研究し進化した製品を送り出した。
「スキーを売るより信用を売れ」「売ったスキーに対する責任は最後まで続くものと知れ」など同社の7項目の営業方針はこのころに固まったものだ。
70年前後には国内にスキーメーカーが43社あった。安さを売り物に輸出に精を出す企業も多かったが、小賀坂は国内顧客を重視し製品の質を落とさなかった。ドルショックやオイルショック、スキー人口の減少を受けてメーカーは相次いで撤退した。バブル崩壊後、カザマスキー、西沢、ヤマハを含む主要4社で生産を続けたのは小賀坂のみだった。
バブル期には輸入も含めて300万台あったスキー市場は今や30数万台。93年に就任した3代目の道邦社長は、同社が残った理由として「第一に量を追わなかった。第二にものづくりに良心的だった。第三に性能を追求してきた」と語る。小売店に指名買いする小賀坂ファンの存在も大きい。
同社はスノーボードへの着手も早かった。スキーのインストラクターから海外にスノーサーフィンがあると聞き、85年に研究開発を始めた。サーフボードのように底が丸く、雪の上では滑りにくい。底を平らにしたスノーボードを開発したのは米国メーカーとほぼ同時だったという。
気候変動による少雪もありスノースポーツは苦戦が続くが、同社は今も日本の雪質や日本人の体形に合わせた製品開発を進める。「スキー・スノーボードを通じて、人々に『喜びと潤いと健康』をもたらすお手伝いをする」。道邦社長が就任時に掲げた社是も顧客第一である。
(宮内禎一)
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いい話ですね~
>「常に買う人の立場にたって考えよ」
>「スキーを売るより信用を売れ」
>「売ったスキーに対する責任は最後まで続くものと知れ」
もうずっと使わせていただいてますが、困ったことはないですもんね。
荒れ地や達人コースも80㎏の体重でガンガン行ってもね。
ちょっと前は90kgありましたし。
そこにさらに硫安2袋とか担いでも問題ないしね(^_-)
>70年前後には国内にスキーメーカーが43社あった。
そんなにあったんですね~(@_@)
>バブル期には輸入も含めて300万台あったスキー市場は今や30数万台。
これもビックリ(@_@)
厳しい時代なのは間違いないですね。